プロフィール

目次

ごあいさつ

貧困サバイバー

初めまして、レベマイ99(レベル マイナス99)管理人の「とっちゃん」と申します。

19XX年生まれの50代、ごくごく普通の夫婦共働きのサラリーマンである。

実はこんな私だが「貧困サバイバー」なのである。

それは、それは聞くも涙、話すも涙の生まれも育ちも極貧

何かの冗談かと思うくらいの極貧で食べ物が無いなんてしょっちゅうである。

電気やガス、固定電話もしょっちゅう止められていた。

(給食のおばちゃんありがとう、給食がなかったらホントに大変だった)

一応なのだが戦後間もない話ではない(都市部にはコンビニもあった時代である)

とっちゃんの自己紹介

誕生~高校期(暗黒期)

196X年 5人兄弟の次男として生まれる

家族から「とっちゃん」と呼ばれている。

なぜ「とっちゃん」と家族から呼ばれているか実はしらない。

名前には関係ないのである。(いまさら照れて家族に聞けない)

絵に描いた様な、貧乏な家庭+機能不全家庭+当然の事ながら生まれながら生活保護による生活

家は引き戸なのに古くてしょっちゅう外れてガラスが割れて無く、紙が貼っている始末

当然、冬は外気温、夏は虫のオンパレード(入り放題)

私がマイホームに固執したのも根っこには「一度普通の家に住んでみたい」という思いだった。

(いまの心境なら新築ではなく、いい中古物件にして価格を抑えておけばと思っている…)

こんな生活は私が18才(18年間)、 社会人になるまでつづく事になる。

貧困家庭の兄弟事情

私と下の弟以外の兄弟は、全員ヤンキー(2人は警察にご厄介になる+新聞に載る⇒施設行き)

迷惑かけまくられたのでイメーが悪いが、ヤンキーになりたくもなる気持ちも十分理解はできる。

現在は更生しているが、それでも自分が兄弟の中で今の所、一番の成功者というのだから泣けてくる。

兄弟のせいで家宅捜索も受けたが、本当に動くと怒られるので家宅捜索にあったら皆さんも気を付けよう。

ちなみに警察は事前に全部調べてくるので、わたしがまじめな人間である事は承知しており、

兄弟の中では一番ていねいに扱われていたのは言うまでもない。(私には敬語で語りかけてくれた)

最後には弟に差し入れに行った鑑別所の待合室にて家族で談笑が出来るくらい神経が太くなってしまった。

ほかにも何組がいたが全員お通夜みたいに暗い雰囲気を出していたことを覚えている。

みんな明るくいこうぜ!

可哀そうな弟

下の弟はちょっと可哀そうで発達障害の上、

思春期に家庭内不和と学校でのいじめのストレスで統合失調症を発症した。

ヤンキーではなかったが、自分の将来を悲観し自殺未遂、晩年は火災事故で他界してしまう。

あらためて「世の中には本当に一度も幸せを感じないままで死ぬ人間がいる」という事を思い知らさる事件となった。

消防や警察の話では検視の結果、

「一酸化炭素(CO)中毒が死因で苦しまなかったと思われる」と言われた。

火災現場の実況見分の際、弟の死んだ姿を模ったビニールの紐はあおむけのままだった。

きっと寝たまま何もわからず逝ったのであろう。

それがせめてもの慰めであろうか?

微妙な父

死んだ人間を悪くいうのは結構気がひけるがここはやはり「父親はどうした?」と疑問の声も上がるので記述しておく

貧困なので生命保険も入っていなかった(後に私が保険に入りまくるというトラウマを与えてくれた。)

父は当時、不景気だったことと、性格にだいぶ難があった為「無職」(超絶メンドクサイ性格である)

子供に虐待をするわけではないが、(昭和の時代なので普通に殴られはしたのだが…)

一般的なダメ男の、借金、ギャンブル、お酒、DV、女性関係ではなく、とにかく気難しいのである。

とにかく周りとトラブルを起こすし、稼いでこない。

不運が重なった事もあるが、父の言葉で文句以外の言葉は記憶にない、

とにかく文句、愚痴、批判ばかりで「正しいのは自分」と他人と自分の距離感がはなはだズレていた。

それでいて気が弱く、結構打たれ弱かったらしい。

大工職人であった父だが、

母曰く「腕はいいが、トラブルになりたくないから腕が劣っても他に頼む!」と知人に言われていたらしく

仕事が回ってこなかったようである。

そしていまだに、父は何を考えていたか子供全員がわからずじまいである。

みなさんも子供にはちゃんと色々伝えよう!

母は偉大なり 偉大なり母

「昭和の母」ここに極まれり!

さすがにそんな父をあてにできない母は、子供に「ご飯を食べさせないといけない」という思いから

個人経営の居酒屋で遅くまで雇われママで働きはじめる。

そんなおり、祖母がくも膜下出血で倒れ母が介護を行うことになった。

介護の経験がある方なら容易に想像できるが、介護だけでも相当に大変な出来事である。

母の一日のルーティンは

昼は「介護」と「子供の非行対応」と「他の子供の世話」「家事全般」、

夜は「介護」と「仕事」で疲弊仕切る

いくら自分の事はある程度出来る祖母といっても、脳を手術したため味覚と短期記憶がなくなってしまった。

とにかく、すぐ忘れる。

おばあちゃん子の私ですら「ワザとか?」と思うほどの見事な忘れっぷりである。

いまでも思うがそんな祖母を面倒見ながら、母はいつ寝ていたのだろうか?

この頃の母の口癖が「寝ている時が一番幸せ…」だったから寝てはいたのだろうが不思議である

不幸に輪をかけるように父が母の不貞を疑い嫉妬+貧困+ストレスで不仲となる。

家庭内での言い争いや取っ組み合いは日常茶飯事

後述するが、母は本当によく病気にならなかったと思うほどである。

いじめ

私は私でお決まりの様に「貧乏」が原因で学校ではいじめられるようになるし、

おまけに先生から「泥棒扱い」や、他の生徒の更生のために「引き合い」にだされる始末

(引き合いに出した先生は今や市の教育長というから世も末である)

同学年の父兄からは、身だしなみがなっていない、だらしない、汚いと散々な言われっぷり。

単に服を買うお金がなかっただけである…!

当然だが、「当たり前の常識」を教える親にも余力があろうはずもない。

そんな私の事情はともかく「遊んで欲しくない子供」ランキングの上位には僕がいたはずである。

今では考えられないが、身だしなみがダメな子や忘れ物をする子は

「学級だより」みたいなもので各家庭に配布され、個人名を晒されていたのである。

大人のその様な目は「子供に理解できる」ので、そんな目で決して見ないでやって欲しい。

ましてや私がされた様に、直接言うなど言語道断である。

当然だが親には相談できないし、今も母に言ってはいない!(悲しむからね!)

生活保護の中、なんとか母が頑張って高校まで入れ卒業させてくれた!

僕だけはどうしても高校に行かせたかったらしい。

私の頭が良かったというわけではなく、他の兄弟が悪すぎたためコントラストで私が良く見えただけである。

しかし、生活保護+奨学金で何とかである。

高校を卒業する頃には私の心は、空襲でも受けたかのような焼け野原の状態だった…「自分は何なんだ?」

社会人(自分の育て直し期)

育児放棄(ネグレクト)や虐待を受けた子供達の心をもとにもどす、「育て直し」というものがある。

まさに社会人になってからは、自分自身の「育て直し」!

自分探しの旅が始まる(この頃から友達がいない事に気づく)

はじめに入社した小さな会社はあっさり潰れる!(まいったねこりゃ!)

当然だが奨学金の返済を行いながらだったから余計にきつい。

返済の為にも、とにかく働かないといけない。

当時はいまよりも新卒以外での社員採用の道は少ない。

しょうがなく近所で雇ってくれる、大きな会社にアルバイトで働く事になる。

そこで「パートで働いてみないか?」

そこの上長に言われたのがきっかけで「パート」となる。

その後「社員見習い」、数年を経て社員試験を受け合格ができ

現在は、日本人なら知らない人はいない大きな会社に正社員として潜り込む事に成功した。

(たまたま、家の近くにあっただけ・・・)

結婚~子育て〜現在

こんなダメダメな自分を好きだと言ってくれる物好きな女性も居たもので、

何人かとお付き合いを経て、現在の妻となる女性と知り合い結婚となる。

妻も大きな会社の正社員で共働きという事もあり、衣食住で心配する事はなくなった。

子供も生まれ

安定期~ときどき波乱…「幸せ」を感じはじめる回数が増える

この世の「お客様」だった自分は、初めて世の中と繋がれた気がした…

行動力あふれる他者志向型のギバーな母

マザコンと思われてもこの際かまわないかもしれない。

あえて言うが、母は他者志向型のギバーである。

前述した様に行動力もハンパではない。

70才を超えても働いていたし、性別問わず友達は多い。

俗にいう「皆に好かれる人」である

なんなら60才過ぎて結婚を申し込まれていたし、ゲラ(笑い上戸)である

なぜ彼女が成功できなかったのか?

アダム・グラントさんが言っていたのと違う!

そう他者志向型ギバーは成功の必要条件であって十分条件ではない

ハンデが大きすぎればいくら他者志向型ギバーでも成功はしない。

引き上げたくても、周りも重すぎて出来ないのである。

実は母も「実父の事故死+実家が火災+母子家庭+女性+また火災」という不幸の中、貧困を味わい成功には至らなかった

生涯で2回火事に合い双方で肉親をなくすとい悲劇を経験する人も稀である

火災にあう確率は0.04%、2回となると0.002%(1回/5万回)

つまり5万回生まれ変わりして1回しか起こらない確率である。

私が知っているだけでも、何回か貧困から抜け出すチャンスがあったが

ことごとく自分の子供に足をすくわれるという、なんともやりきれない目にあわされる。

更生した子供達も自分たちがした過ちを猛烈に反省し、今は恩返しをしているが、

とにかく失敗の内容が大きすぎて、いまだ母に償えていない。

「男だったら」と自他ともに惜しまれている、とにかく「行動力溢れる他者志向型のギバー」である

女性蔑視ではないが、もし男性であれば恐らくは成功していたのではないだろうか。

高齢の母にとって、私だけがせめてもの救いなのだろう。

ブログ紹介

「袋小路の向こう側〜歩いた先に景色がある〜」

わたしが幼少の頃(4〜5才位)の話になるのだが、

小さかった私は普通の道を袋小路と思い込み泣いてしまった事がある。

実際は少し変な形をした道なだけであるが、小さい私にはブロック塀が文字通り壁に見えてしまい、

「道路に閉じ込められた」と思い大きな声で泣きすくんで動けなくなったを覚えている。

当時は近所の大人が道を見渡せる「向こう側」まで案内してくれて家に帰る事ができたが、

人生を振り返って見ると大きな問題が起きた時は、いつも袋小路に見えていたものである。

しかしそれは袋小路ではく自分が勝手にそう見えただけで、解決の方法がわからなかっただけだった。

解決してしまえば「袋小路の向こう側」は必ずあったのである。

このブログでは、人生の袋小路に入り込んでしまった人や、子供の頃に貧困に困っていた人達が

袋小路の向こう側」に行けるよう少しばかりの助力を!そのようなブログであろうと思っている。

最後まで読んで頂き感謝申し上げたい。

とっちゃんより

目次
閉じる